−経緯− 昭和26年1月24日の夜、山口県熊毛郡麻郷村八海で、瓦製造業の早川惣兵衛さん(当時64歳)と妻のヒサさん(当時64歳)が殺され現金17000円が盗まれる強盗殺人事件が発生した。 警察は、事件から2日後の26日未明、同村八海の土木作業員・吉岡晃(当時22歳)を逮捕した。吉岡は遊び好きで、借金に困り知人の早川宅に盗みに入ったが、顔を見られたため斧で顔をめった打ちにして惨殺した。吉岡は早川夫妻の夫婦喧嘩に見せかける工作をしたが、吉岡の衣類に返り血の付着と飲んだサイダーのビンから指紋が検出され吉岡が逮捕されたのだった。 −悲劇− 吉岡逮捕までは、警察当局も迅速で的確な対処であったが、ここから警察は大失態を犯す。警察は、犯人の吉岡が夫婦喧嘩に見せるため工作した現場の荒らされ方を見て、吉岡単独犯行とは考えにくい。よって複数での犯行であると勝手に推測したのだ。吉岡が単独犯行を認めて自供しているのにである。 そこで、警察は吉岡を取り調べ室で足の下に警棒を4本も入れて正座させ警官がその足にドスン、ドスンと乗って「おまえは嘘をついている。このままでは死刑になるぞ、他の犯行仲間の名前を白状しろ」と拷問を続けた。結局、気の弱い吉岡は仕事や遊び仲間である阿藤修平(当時24歳)、稲田実(当時23歳)、松崎孝義(当時21歳)、久永隆一(当時22歳)の4人の名前を上げてしまった。この供述によって4人は逮捕された。 しかし、証拠は吉岡以外には出てこない。そこで警察は4人に対して拷問の限りをつくした。その結果、4人は犯行を自供、しかも阿藤が主犯として決め付けられてしまった。 −異常な公判− 昭和27年6月山口地裁岩国支部は検察側の主張を認めて阿藤死刑、吉岡ら4人に無期懲役を言い渡した。吉岡を除く4人は控訴した。検察側も阿藤を除く4被告について控訴した(検察側は全員の死刑を求刑)。昭和28年9月広島高裁は阿藤の死刑、吉岡の無期懲役を支持しながら、稲田を懲役15年、松崎、久永を懲役12年に減刑した。 これに対して吉岡は上告取り下げで無期懲役が確定。阿藤ら4人が上告した。昭和32年10月最高裁は「原判決に重大な事実誤認がある」として原判決を破棄して広島高裁に差し戻した。 広島高裁は裁判のやり直した結果、阿藤ら4人が吉岡と共謀したとは認めがたく吉岡の単独犯行として4人に無罪を言い渡した。これに対して検察側は事実誤認として上告した。 昭和37年5月最高裁は一転して明らかに複数の犯行であると認めて再び広島高裁に差し戻した。広島高裁は2度目のやり直し裁判で昭和40年8月阿藤ら4被告も共犯者であると認定し阿藤に死刑、稲田に懲役15年、松崎、久永に同12年を言い渡した。 阿藤らは3度目の上告をした。その結果、昭和43年10月25日最高裁は証拠不十分を理由に原判決を破棄し無罪を言い渡した。最高裁が下級審の事実認定を覆し無罪を言い渡したのは裁判史上初めてのことであった。 −矛盾− この異常な公判は市民も疑問を抱くようになり、弁護士の正木ひろし、原田香留夫が立ち上がった。正木は、1、2審の事実認定に多くの不合理を指摘した。その内の1つとして、犯行に及ぶ時間軸の矛盾を追及した。 吉岡の供述では、犯行当日の午後10時40分頃、5人が八海橋に集合して犯行の役割分担を確認し午後10時50分頃早川宅に侵入し犯行に至ったという。この10分間に八海橋で共同謀議して早川宅までの600メートルを歩き、侵入口を探して凶器を見つけて犯行に至ることは物理上不可能であることを正木弁護士は主張した。 正木弁護士は、この異常な公判を「裁判官」というタイトルで出版しベストセラーになる。映画会社はこれを基に「真昼の暗黒」というタイトルで映画化して多くの国民の知るところとなった。 何とか4人の有罪を立証しようとした検察は4人のアリバイや矛盾点を完全に無視し、偽証の証言者を作り上げたり、被告に有利な証言者に対し偽証罪で次々に逮捕するなど凄まじいデッチ上げを昭和33年から40年まで続けた。この事実が晒しだされて、警察、検察の横暴と司法の怠慢に世論の非難が集中した。 結局、吉岡は警察に強要されて無実である4人の名をあげたとする「吉岡上申書」が提出され、昭和43年10月25日、最高裁で幻の犯人である阿藤ら4人は無罪を勝ち取った。阿藤は死刑と無罪という異常な状況に追い込まれた。人間が人間を裁く難しさを改めて浮き彫りにしたこの事件で、阿藤らが無罪を勝ち取るのに事件から18年の歳月が経っていた。
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